2013.12.03|READYFOR?投稿記事
発災直後の現地の状況①
READYFOR?をご覧のみなさん、こんにちは。復興応援団代表の佐野哲史です。
新潟での原体験を通じた復興応援団の自己紹介に引き続き、今日から4回連続の新シリーズで、佐野が目にしてきた被災地の発災直後の状況と、それを受けた本「防災減災事業」のめざすものについて述べていきます。
10月23日の記事(https://readyfor.jp/projects/_ccj/announcements/5397)で、避難所を中心に発災直後の現地の状況を見ての「気づき」として以下の3項目を挙げました。
①すべての秩序・事前の想定・マニュアルが崩れ、通用しない
②避難所で起こることは決して一様ではなく、避難所一つ一つで全く異なる
③避難生活の質は、「避難所運営の質」と「避難者のスタンス」で決定する
今日は、①すべての秩序・事前の想定・マニュアルが崩れ、通用しない について述べたいと思います。
発災直後はライフライン全てが停止していましたが、例えば、ケータイ。
まったく通じなくなったので、安否確認をmixiやTwitterを通じて行なった人が多くいました。
僕が入った6日目時点(※)でも、例えば気仙沼はauのみなどかなり通じにくい状態が続いており、避難した方々は、避難所の壁に貼り紙をして家族の合流を図っていました。
周辺から孤立する地域・集落がありました。ある町のある地域では、幹線道路と中心市街地にアクセスする橋が落ち、およそ一週間の間物資も支援も入って来なかったため、流れ着いた冷凍庫をバールでこじ開けて食べられるものを集め、一日一回だけ自主的な炊き出しをして飢えをしのぎました。
地元自治体やコミュニティの機能も停止しました。ある町では防災無線が出力不足で使えず、津波が来ていることを把握したのはケータイのワンセグでした。
ある町では広大な地域が水没し、市長がボートでやっと市庁舎入りしたのが発災4日目でした。
ある地域では事前の打ち合わせで物資調達の責任を追っていた区長さんが亡くなり、まったく物資が入って来なくなりました。
ここに述べたのは、ほんの一部のできごとです。当時の僕は、これらの状況に直面して、人口も少なく人間関係も豊かな東北でさえこんな混乱が起きるのであれば、首都圏で同じことが起きたらちょっと考えられないぐらい大変なことになると、激しく戦慄しました。
大規模な災害は、「すべての秩序・事前の想定・マニュアルが崩れ、通用しない」事態を生みます。
そうした事態に際し、われわれはどう振る舞えばいいのか?
そのあたりを、整理しすぎることなく、理論・感情のどちらに触れすぎることもなく、みなさんにお伝えしていきたい、というのが本研修事業の志です。
明日も引き続き、発災直後の状況についてお話していきます。
※注
佐野は、2011年3月14日に発足した仙台・東京・関西のNPOと日本財団の合同プロジェクト「つなプロ」の現地本部長に就任、全国から集まった500人以上のボランティアスタッフと共に宮城県全域の避難所調査と人材・物資のマッチング活動に発災直後から数ヶ月間取り組んでおりました。